忠春社について
忠春社
神楽岡・宗忠神社の創建に功績のあった、赤木忠春をお祀りしています。
ご鎮座120年記念祝祭の際に、その生前の功績を顕彰し、再建しました。
また、お住まいであった岡山にも忠春神社(岡山県久米郡久米南町中籾)が創建されております。
赤木忠春とは
生い立ちと、開眼まで
赤木忠春は、文化13年(1816)に美作国久米南条郡八出村(現、岡山県津山市八出)のお生まれです。
学問に明るく、優秀な人物であり、20歳の時に、同郡の中籾村の大庄屋の赤木家に養子入りします。
しかし、その2年後、22歳の時に重い眼病にかかり、ついに失明しています。
それから8年間、30歳の時まで、苦悶の日々が続きますが、親類の方の勧めで、備前(岡山)で名高かった黒住宗忠のもとに行くこととなりました。当時、黒住宗忠は66歳で、その教えは言うまでもなく、教団の組織としても、盛んな時期でありました。赤木忠春は、その講席を一度拝聴しただけで、即座に目が開いたと言われています。この時の感激は、京都への布教を始めとした諸活動の大きな原動力となります。実際に黒住宗忠の大明神号請願の際に、提出したその書状にも、そのことについて触れられております。大きな感動の元、弟子入りした赤木忠春は、すぐに頭角を現し、弟子の中でも特に優れた人物として一目置かれるようになりました。忠春の「忠」という字は、師の黒住宗忠の「忠」から賜ったものですので、その期待の高さが伺われます。
京都における活躍
黒住宗忠の死後、その教えを広めようと、弟子の方々は岡山から各地へ旅立ちました。赤木忠春は、京都方面の布教に行かれます。教えはどんどん広まっていき、九條関白を筆頭に公卿方が次々と入信し、江戸時代最後の関白をつとめ、明治時代になって幼い明治天皇の摂政の任にも当たった二條齊敬関白、また三條實美公といった方々の信仰を次々と得られ、ついには当時の天皇である、孝明天皇の尊信を受ける事となりました。晩年は郷土に戻り、慶応元年(1865)4月16日にその生涯を終えられました。ご昇天のその日は奇しくも、勅願所制定にむけて内々の勅定がされた日でありました。神楽岡・宗忠神社の創建はもとより、今日まで残る多大な功績を挙げられました。
眼病平癒と赤木忠春
眼病平癒
初穂料 800円
京都、神楽岡・宗忠神社の創建に尽力した赤木忠春は、8年間の盲目が、黒住宗忠の一度講席を拝聴して快方したことから、眼病の方から信仰を集めています。特に岡山の方では、古くより、眼病平癒の信仰が広まっております。神楽岡・宗忠神社におきましても、忠春社の前で、眼病平癒のご祈念をいたします。(通常、忠春社でご祈念は行いません)
眼病平癒参拝の主な流れ
- 拝殿に進みます
- お祓いを行い、宗忠神に参拝の報告祝詞を奏上します。
- 忠春社の前に進み、眼病平癒の祝詞を奏上します。
- 最後に、眼病平癒のお守りを授与いたします。