沿革
ご祭神ご昇天6年後の安政3年(1856年)に、朝廷より「宗忠大明神」の神号が下賜され、文久2年(1862年)京都の一等地、吉田山神楽岡にご鎮座なりました。
その後、関白二條公、九條公など十指にあまる公郷方の信仰を受け、慶応元年(1865年)には孝明天皇が仰せ出された唯一の「勅願所」となり、名実ともに万民和楽、世界の大和を祈る聖なるお社となりました。
※勅願所・・・天皇陛下の願いにより、国家鎮護、国民の平安を祈願する神社や寺院のこと。
宗忠神社の歴史
文久2年(1862)2月25日
神楽岡・宗忠神社鎮座
慶応元年(1865)4月18日
孝明天皇が仰せ出された唯一の「勅願所」に選定される
9月16日
上社・神明宮 鎮座
※関白二條齊敬公の屋敷の庭に祭られていた大神宮を神楽岡・宗忠神社に遷座された慶応2年(1866)2月7日
朝廷より、従四位の下の神階を宣下される
明治45年(1912)4月17日
境内を拡張し、現在の場所に社殿を建築、上社を遷座。正参道が整備され、現在の境内の形が整備される。
昭和17年(1942)2月7日
府社に列せられる
※昭和21年、制度の改正により廃止平成24年(2012)11月3日4日
黒住宗忠とは
黒住宗忠は、安永9年(1780年)11月26日(旧暦)の冬至の日、備前国(現在の岡山県)今村宮の神職をつとめる家に生まれました。
幼少時より孝心で信仰心があつく、「中野の考子」として表彰されました。
しかし33歳の時、かけがえのない両親が流行病によりわずか1週間の内に相次いで亡くなりました。その悲しみがもとで宗忠自身も不治の病といわれた肺結核に侵され、2年後には明日をも知れない状態に陥りました。死を覚悟した宗忠は、この世の別れにと覚悟して日の出を拝みました。この“最期の日拝”の祈りの最中に、両親を慕うあまりに病気になるとは、大変な親不孝をしていたと気づき、宗忠の暗く閉ざされた心のなかに陽気な感謝の気持ちがよみがえり、その結果わずか2カ月で不治の病を完全に克服しました。文化11年(1814年)11月11日(旧暦)、古来「一陽来復」と呼ばれる冬至の日に昇る朝日に格別の思いで祈りを捧げていると、宗忠は全ての命の親神である天照大御神と神人一体になり、悟りの境地に立ちました。黒住教では、このことを「天命直授」(てんめいじきじゅ)と称して、黒住教立教の時としています。
以来、宗忠は世の中の苦しむ人や助けを求める人のために昼夜を問わず祈り、教え導き、多くの人々から生き神と称えられ、すでに神仕えの身であったこともあって自然な姿で回りから神と仰がれました。
黒住教について
黒住教は、備前岡山藩の守護神社・今村宮の神官であった黒住宗忠(1780~1850)が、江戸時代(文化11年11月11日・西暦1814年)に開いた教派神道です。
幕末三大新宗教に数えられ、神道十三派の草分けです。